第二話「江戸の長岡で」

時をかけるトレイルランナー

第二話「江戸の長岡で」

「山城国乙訓郡、長岡の里…」

健一は老人の言葉を反芻しながら、どうにか人目につかない場所へと移動した。竹藪の陰に身を隠し、状況を整理しようと試みる。

(冷静になれ。まず事実を確認しよう)

腕時計を見る。午前七時十五分。デジタル表示は正常に動いている。スマートフォンを取り出すと、圏外の表示。当然だろう。GPSも機能しない。

「とりあえず、この格好をどうにかしないと…」

現代のランニングウェアは、この時代では間違いなく妖怪か異国人扱いされる。健一は周囲を見回した。洗濯物を干している民家が見える。

(申し訳ないが、借りるしかない)

忍び足で近づき、竿に掛けられた野良着を一着失敬した。サイズは少し大きいが、何とか着られる。ランニングシューズだけはどうしようもないが、足袋があったのでそれも拝借した。

「うん、これで少しはマシに…」

鏡代わりに池の水面で自分の姿を確認する。髪型が現代風すぎるが、手で適当に整えれば何とかなるだろう。

町の中心部に向かって歩き始めると、活気ある声が聞こえてきた。市が立っているらしい。野菜や魚、雑貨を売る声が響く。

「大根、安い大根はいかがー」

「今朝獲れた鮎だよー」

健一は市場の様子を興味深く観察した。教科書でしか見たことのない江戸時代の庶民の生活が、目の前で繰り広げられている。

しかし、現実問題として金がない。現代の千円札や小銭は、ここでは紙屑同然だ。

「腹が減ったな…」

朝のランニング前に軽食しか取っていない。このままでは体力が持たない。

そのとき、魚屋の前で騒ぎが起きた。

「泥棒だ!泥棒だ!」

若い男が魚を掴んで逃げていく。町人たちが追いかけるが、男の足は速い。しかし健一の目には、その動きがスローモーション映像のように見えた。

(トレイルランニングで鍛えた脚力と持久力なら…)

迷う間もなく、健一は追跡を開始した。

野良着の裾をたくし上げ、現代のランニングフォームで走る。効率的な着地、無駄のない腕振り、一定のピッチ。泥棒は振り返って健一の姿を見ると、明らかに動揺した。

「何だ、あの走り方は…」

距離はあっという間に縮まった。狭い路地に逃げ込んだ泥棒を、健一は軽やかに追い詰める。

「観念しろ」

「ひ、ひぃ…」

泥棒は魚を落として、震え上がった。健一の走りを見た町人たちも、唖然としている。

「すげぇ…まるで飛んでるみたいだった」

「あんな走り方、見たことねぇ」

魚屋の主人が駆けつけて、健一に深々と頭を下げた。

「ありがとうございました!おかげで商品が無事に…お礼をさせてください」

「いえいえ、当然のことを…」

「せめて飯でも食っていってください。見たところ、旅の方でしょう?」

健一の胃袋が、グウと鳴った。

「それでは…お言葉に甘えて」

魚屋の奥で握り飯と味噌汁をご馳走になりながら、健一は考えた。この時代で生き抜くためには、自分の能力を活かす方法を見つけなければならない。トレイルランニングで培った体力と走力は、確実にこの時代でも通用する。

「お兄さん、どちらからいらしたんで?」

「あ、えーと…遠い山の向こうから…」

「それにしても、すごい走りでしたね。まるで天狗みたいだった」

天狗。健一の頭に一つのアイデアが浮かんだ。

(もしかして、これが現代に帰る手がかりになるかもしれない)

西山で道に迷ったとき、確かに天狗の伝説を思い出した。もしかすると、この時代の天狗伝説と、時空の歪みには何か関係があるのかもしれない。

「あの、この辺りで天狗の話って聞いたことありますか?」

魚屋の主人の表情が急に真剣になった。

「天狗…ですか。それなら、西山の奥に住んでいるという話は昔からありますが…まさか、お兄さん…」

健一の心臓が高鳴った。

つづく


次回第三話「天狗の山」 健一は西山の天狗伝説に現代への手がかりを求める。しかし、山に向かう道中で出会った旅の武士から、思わぬ依頼を受けることになり…