『分岐点の彼方へ』

時をかけるトレイルランナー

第一話「西山の分岐点」

午前六時、長岡京市の住宅街はまだ静寂に包まれている。田中健一は玄関先でシューズの紐を結び直しながら、今日のコースを頭の中で確認した。

「今日は善峯寺まで上がって、そこから十輪寺方面に下りるか」

三十二歳のシステムエンジニアの健一にとって、西山トレイルでの朝練は日課だった。平日の忙しさから解放される唯一の時間。足音が地面を蹴る音、鳥のさえずり、そして自分の呼吸音だけが世界のすべてだった。

竹の径から登山道に入ると、いつものように身体が軽やかになった。標高差約三百メートルの適度な起伏が、都市部に住む身には絶好の練習場だ。汗ばんだTシャツが朝の冷気に触れて心地よい。

善峯寺の境内を抜け、いつものように十輪寺への下りコースを選ぼうとしたとき、健一は足を止めた。

「あれ?こんな道あったっけ?」

右手の茂みの奥に、見慣れない踏み跡が続いている。地図で何度も確認した西山のコースに、こんな分岐があっただろうか。好奇心に駆られた健一は、迷わずその道に足を向けた。

「まあ、迷っても大したことないだろう」

踏み跡は意外にしっかりしていた。しかし歩くうちに、周囲の景色が徐々に変化していることに気づく。木々が鬱蒼と茂り、空気がひんやりと澄んでいる。まるで深山の奥地にいるような感覚だった。

「おかしいな…西山でこんなに深い森って…」

不安を感じ始めた健一が振り返ろうとしたとき、足元の地面が突然ふわりと浮いた感覚に襲われた。めまいのような、船酔いのような、形容しがたい感覚。視界が歪み、時間の感覚が曖昧になる。

そして気がつくと、健一は全く違う場所に立っていた。

「え…?」

目の前に広がるのは、舗装道路ではなく土の道。電柱も電線も見当たらない。代わりに、茅葺き屋根の家々が軒を連ね、着物を着た人々が行き交っている。

「嘘だろ…」

健一は自分の格好を見下ろした。ランニングシューズ、ハーフパンツ、速乾性のTシャツ。明らかに場違いな現代の装いが、この古風な町並みの中で異質に浮いている。

通りすがりの男性が健一を見て、驚いたような表情を浮かべた。

「おい、あの者の格好は一体…」

「まさか、異国の者か?」

ひそひそと囁き合う声が聞こえる。健一の心臓が激しく鼓動した。

(これは夢だ。きっと低血糖で倒れて、変な夢を見ているんだ)

そう自分に言い聞かせながらも、足音、匂い、肌で感じる空気の質感、すべてがあまりにもリアルだった。

遠くから太鼓の音が響いてくる。祭りでもあるのだろうか。健一は混乱した頭で、とりあえず人目につかない場所を探そうと考えた。しかし現代人の格好で江戸時代(だとすれば)の街を歩き回るのは、あまりにも危険すぎる。

「あの…すみません」

意を決して、近くにいた年配の男性に声をかけた。男性は健一の格好をまじまじと見つめ、眉をひそめた。

「何じゃ、その格好は。まるで…まるで…」

「あの、道に迷ってしまって…ここは一体…」

「ここは山城国乙訓郡、長岡の里じゃ。お主、どこから来た?その奇妙な装束は一体…」

長岡。確かに現代でも長岡京市だ。しかし、この景色、この空気、この人々の装い。すべてが数百年前の世界を物語っている。

健一の脳裏に、一つの可能性がよぎった。

(まさか…時代が…?)

つづく


次回第二話「江戸の長岡で」 健一は江戸時代の長岡の里で、自分の正体を隠しながら現代への帰り道を探すことになる。しかし、奇妙な格好の彼を見つめる人々の視線は日に日に厳しくなり…